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愛と神(4)

本来、愛はさりげないものです。

さりげないからこそ、人の心に深く刻み込まれるのです。

 

世の中には、命をかけて何かに取り組む人、あまりにも力が入りすぎている人、活動が、自分の存在価値になっている人がいます。押しつけがましい人、上から目線の人・・・どんなに素晴らしい思想や活動でも、そこに自分のエゴが入ってしまうと、愛は、人の心に届きません。心に届かない愛は、結果的にエゴとなってしまうのです。反発や拒絶、心の壁が生まれてしまい、本来の思いとは正反対の結果になってしまいます。

 

古来より、天皇は預言者でした。預言者とは、未来を予言するということではなく、神さまの言葉を授かる人のことを指します。

預言者である天皇の言葉、「御言葉(みことば)」とは、本来さりげなく、さりげないからこそ、国民の心にすーっと、刻みこまれるものであったのです。

 

愛とは、シンプルなものです。難しいことではなく、誰もが知っていることです。知識としてでなく、心の奥でしっかりと、その言葉の本質を理解するかどうかのちがいです。心の奥に刻み込まれた言葉というのは、必ずいつか、それを本質的に理解するときが訪れるのです。

 

愛の計画は、人それぞれにちがいます。その人にとって、最良の時、最良のタイミングで、物事が動くように最初から計画されているのです。

自分のエゴで決めるのではなく、神さまの愛で決められる物事というのは、すべてがスムーズで無理がありません。最良のタイミングで物事が進みます。

 

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愛と神(3)
 愛は、日々の生活の中で表現されます。

仕事であったり、言葉であったり、行動を通して・・・

中でも、ワクワクするような仕事・活動というのは、愛そのものであると言えます。神さまから授かったまさに、愛の賜物(たまもの)です。

 

人には誰でも、神さまから与えられた天分があります。それは、「賜物」とよばれるものです。賜物は、まさに、愛そのものなのです。

人がこの世の中で、賜物を表現するとき、人は、至福を味わうのです。神さまが、その人を祝福しているからです。

賜物は、人の心に深く、強く響きます。人は、賜物によって心を開き、愛に目覚め、魂が覚醒するからです。同じ振動の音さが共鳴しあうように、愛が、人の心を満たしていくのです。

 

世の中には、様々な価値観を持った人々が存在します。そして誰もが、自分自身の賜物を表現することによって、愛の振動を誰かに届けることが出来るのです。幸せとは、愛の振動を誰かに届けた、神さまの領収書のようなものです。

 

自分の思いが、愛から来ているのか?エゴから来ているのか?人は常に、自分自身に問いかけてみる必要があります。世の中に愛が表現されるとき、物事の全てが調和するのです。人は、それを奇跡と呼びます。反対に、エゴは、不調和を起こし、物事がうまく運びません。自分の行動が、正しいか正しくないかの判断は、実は瞬間瞬間、その答えが出ているのです。

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愛と神(2)
自己奉仕という言葉がありますが、自己奉仕とは、マザー・テレサのようでなくてはいけません。マザー・テレサは、貧しい人たちを助けることが自分の喜び、心の幸せだったのです。しなくてはいけないという義務感、したほうがいいという正義感は、愛ではありません。「そういう自分になりたい・・・」いう欲が、そうさせているのです。楽しくない自己奉仕、他人を責めてしまう自己奉仕は、愛ではありません。どちらかと言えば、なぜこんなことをしているのかわからない・・・とか、自然とこのような状況になってしまった・・・という方が、愛に生きていると言えるのです。

 

いつも笑っている人、楽しそうな人というのは、こちらの心までホッとします。自分が、もし、そうでないのであれば、どこかで自分の神を裏切っているのです。うつ病というのは、その典型です。自分自身を信じることができないので、ついつい周りや世間の常識、固定観念に流され、自分の本当の思いの逆方向へ行ってしまった人です。自分の本当の思いに従えばよいだけなので、うつ病は病気とはいえません。ところが、薬を使ってしまうと、精神が錯乱してしまって、余計に本当の自分の心がわからなくなり、取り返しのつかない事になってしまうのです。

 

プライドの高い人というのは、自分の中の神、本当の自分の思いを知らない人です。自分の神が見つからないので、地位や名誉、物質の豊かさに目を向け、自分自身の存在理由を守っているのです。本当は、自分自身に自信がない人です。自分の神を心の中に持っている人は、それだけで満たされていて幸せそうです。神さまが、自分を、本当のあるべき場所へ導いてくれている事を知っているからです。

 

しかし、欲がない人はいないというのも事実です。欲があるからこそ、何かに気づく機会が訪れ、自分自身を改めようと思うのです。自己奉仕と自己犠牲は、表裏一体です。いくら他人が喜んだとしても、自分を犠牲にし、自分の神を裏切りつづけているのですから精神がおかしくならない訳がありません。自己犠牲を愛と勘違いしてしまうことがたくさんあります。

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愛と神(1)

愛が、誰かに届くとは、どういうことでしょうか?

 

人は、生きていれば、呼吸をし、言葉を発し、行動します。

毎日毎日、人は心の意思にもとづいて、人生を生きているのです。

 

さて、意思とは何でしょうか?

心、自分の気持ち、魂、エゴ、神さまのみちびき・・・

心の中から、湧き出ては消えていく人の思いとは、何とも不思議なものです。

 

実は、私たちの気持ちというのは、神さまの愛と自分自身の自我(エゴ)という2つの思いが、混ざり合ってできているのです。例えるならば、愛の民族である葛城氏と自我の民族である藤原氏の葛と藤から、「葛藤」いう言葉ができているように、人の心にも、愛と自我のせめぎあいが存在しているのです。(実際は、天津神と国津神であり、本来同族であります。)

 

ちなみに、ここでいう神さまとは、宗教的な神さまとか、目に見える神さまということではなく、我々人間を正しい方向へ導いてくれる大いなる何か、偉大な存在という意味です。神、仏、天照大神、イエス・キリスト、宇宙・・・何と表現してもいいのですが、ここでは神さまという言葉を使います。

 

愛は、私たちの日常生活で、この世の中にどのように現れるかというと、楽しさ、ワクワク、感動、気持ちいい、幸せ、奇跡というものが、愛エネルギーが、この現実世界に表現された証であるのです。それらは、自分自身の生き方が正しいという神さまの証明書といえます。

反対に、自我は、苦しい、悲しい、病気、ストレス、恐怖、不調和といった現象で現れます。その時、人は、神さまからの警告を受け取っているのです。つまり、それらの現象というのは、自分自身を改めるサインであり、大きな意味では、これらも、愛の一部と言えるものです。

 

つまり、世の中というのは、すべてが愛でできているということがわかります。

 

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