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お盆休み
最近なぜか子供にうける。「竹まっちゃん、竹まっちゃんと、あっちの甥やこっちの甥が、やたらとからみついてくる。こちらも結構まんざらでなく、「ニャンニャンニャン、フニャニャニャニャーッ!」と真剣に相手をするので、もうキリがない。相手のことを子供というよりは、一人の人格としてみてしまうので、適当のあしらう事がないかわりに、泣かすときは泣かす。

あーっ、お盆休みは楽しかった。あっちの実家とこっちの実家で遊び放題。子供たちの相手もそれなりに楽しい。
しかし、最近なぜこんなに子供に受けるのか・・・数年前なら考えられない。くどくて面倒くさいのは一番いやだったのに。最近は、「子供には受けるのに、もうちょっと大人になーっ」と奥さんに笑われる。

うちの実家には、両親の他に叔父と叔母がずっといっしょに住んでいた。僕の事を実の子供以上にかわいがってくれた、神様のようにやさしい人たち。僕は子供のころから、ずっと叔父と叔母のことが大好きだった。
叔父と叔母には子供がいない。その二人が最近もらす・・・「子供がおらんというのは、本当につまらんの・・・」 心の中で、「ふーん」とつぶやきながら、そんな事は忘れていた。「竹まっちゃん、竹まっちゃん!」と楽しいそうにまとわりついてくる甥たちは、確かにかわいい。もう、何かこう、いとしささえ感じる。
ところが、そこに両親がいるとやっぱり「お父さん・・・」なのだ。なるほどね。それは当たり前のこと、と思いながらも心の何処かで少々さみしい風が吹く。

「あー、叔母が言っていた言葉の意味はこういうことなのかなーっ」と思いながら、今度実家に帰ったときは、もっと叔父と叔母の家にいて、実の子供のように甘えようと思った楽しいお盆休みでした。
| 愛の旅人たち | 20:59 | comments(0) | - | pookmark |
マクロビオティック自然療法
開店以来、毎日欠かさず玄米弁当を食べつづけてくれている人がいる。
本町の一角でわずかばかりのお弁当を売り始めた十数年前に比べれば、今はたくさんの人たちに食べてもらって本当にありがたい。
お弁当をきっかけにして、玄米を食べるようになり、肌がツヤツヤになったと喜んでくれた人。エッセイに共感したと、とてもあたたかい手紙をくれた人。西式健康法の甲田医院を知って自らの難病を克服した人。

12年毎日お弁当をとってくれていた人が、身内の体の加減で会社を辞められた。「よくぞ今まで・・・」有難いやら、切ないやらで、妙な気分だ。こんな弁当でも、毎日配達できたことを本当に喜んでくれた。今ではすっかり玄米好きになり、甲田医院へも連絡をとってみるらしい。
出会いというのは本当におもしろい。本当にありがたい。

あーっ、しかし、周りを見渡すと本当に病人が多い。親戚、知り合い、親、家族。アトピー、糖尿病、心臓病。
久司道夫の「マクロビオティック自然療法」を読んで、それを正しく実践したならば、数週間で症状は間違いなく好転し、ほとんどの病気が回生に向かうのになーっと、つくづく残念に思う。
| 愛の旅人たち | 14:39 | comments(0) | - | pookmark |
オーガニック生活のすすめ(18)

妙な話だが、僕の人生は30歳のとき、一度終わったのではないかと思う。

人にはとても言えないような人生の大波乱のときに、魂が入れ替わったのか?頭の上のほうから、ものすごく大きなスーパー掃除機のようなもので魂をすわれたと思ったら、天から大黒柱のような大きなエネルギーの固まりのようなものが、僕の体をつきぬけた・・・何とも奇妙な体験であったが、それ以来、価値観や性格・人間がまったく変わってしまったように思う。

人には、人生において超えるべき大きな課題がひとつあるという。そういうものを、僕は30歳のとき知ったのだろうと思う。それで、生活も環境もまったく異なった新たな人生が、また始まったのだと思う。今の生活には、不思議と以前の人間関係をほうふつとさせる人たちが、また同じように存在するのだ。

何とも人生はフシギだ。ここまで人は変わるものなのか。
誰かとかかわり、心が共鳴して、自分自身の何かが相手に流れこむ。
例えようのない喜びと感動をおぼえる。人生がまた、もう少し大きな幸福感でみちる。
人は、一日にいくつ感動できるかで人生の価値が決まるのだと思うから。

| オーガニック生活のすすめ | 20:53 | comments(0) | - | pookmark |
オーガニック生活のすすめ(17)
あれから何年たっただろうか・・・
本町の一角で数個のお弁当を売りはじめたあの頃。
こんなに幸せになれるとは、思っていなかった。

30歳までの物質的に満たされていた暮らしを捨て、自ら飛び込んだ、心のままに生きる自由人の生活。しかし、世間はそんなにあまくはなかった。
今まで生きてきた心のアカと虚飾な暮らしという、人生のつけがいっぺんに自分自身に返ってきたようだった。今まであったすべてのものがなくなって、我が身に降り注ぐ苦難と心の平安をいっぺんに味わう冒険の日々の中で、心がそげていくのを感じた。
僕の心の奥に、あたたかい何かが芽ばえはじめるようだった。長い間、忘れていた何かを思い出したのかもしれない。

今は、自分自身を何かに捧げて生きていきたい・・・なんて思う。大切な人であったり、世の中であったり、自然であったり。きっと、そんな生き方を誰もが望んでいるのだろうと思う。僕は、ここ数年のいろんな人たちとの出会いによって、今の自分自身が出来たように思う。そして、彼女にめぐり会って、僕の人生が変わった。
幸せで満たさせた暮らしが、また僕の生活に戻ってきたのだ。

今、何かが始まったように思う。長い長い春がすぎ、今から大きな何かが始まっていくような気がする。
| オーガニック生活のすすめ | 01:23 | comments(0) | - | pookmark |
オーガニック生活のすすめ(16)

世間にはびこる食べ物というのは、本来の食べ物の姿ではない。そして、それらを日々口にし、生命の糧にしている我々もまた本来のあるべき姿ではない。

しかし、自分のまわりを見渡しても病人が多い。身内、親戚、知り合いと風邪や肩こりから、ややこしい難病まで不健康にはきりがない。
だが、ある意味、病は間違った生活と生き方のいましめであるから、人は考えや生き方を改め、心を入れ替えて少しづつ素晴らしい人間になっていくのだろう。そう考えると病気もまんざらでない。ところが、である。災いは少ないに越したことはない。病気になるとどうしても気がめいる。いわゆる生命の気が途絶えるのである。そうするともう、日々やるべき魂の旅がおろそかになる。自分自身の愛の表現などとんでもない。心と体が真に健康であってこそ、純粋な尊い魂の表現ができるのだ。

現代人は、文明の発展による贅沢な食生活によって、体と心にかなりの負担を強いられているといえる。だから、人生が、お金や出世、一時の幸せといった表面的な幸福ではなく、もう絶対に変わることのない真の幸福感を追求するといった世界観に至らないのだろう。

オーガニックとは、本来のあるべき人として生きるスタートラインである。心と体の余計な負担を取り除く魔法の扉である。オーガニックは、別に特殊な生活スタイルではない。本物を食べ、本質を生きることである。現代社会が生み出した、資本主義に都合の良い便利な食べ物ではなく、日本の伝統と文化に根ざした本来の美味を食することである。オーガニック食品は、意外と身近でそろう。食生活を無添加オーガニックに変えてしばらくすると、きっと我が身の体と心の劇的な変化におどろくことだろう。手っ取り早くと思う人は、マクロビオティックの七号食をすれば、3日でわかる人も多い。

| オーガニック生活のすすめ | 18:46 | comments(0) | - | pookmark |
オーガニック生活のすすめ(15)
醤油が1Lで1000円、塩が500gで1000円、料理だしが一箱1500円。

昔ながらの調味料は高い。少々高いどころではない・・・5倍は高い。
どうしてこんなに値段がちがうかというと、材料が高いうえに、手間がかかるから。
それで、食品メーカーは、知恵をしぼって安くて美味しく簡単な、現代の調味料を考えだしたのだ。
手間をはぶくために添加物を加える。本物の味に似せるために添加物を加える。素材の悪さ・旨味のなさを化学調味料でおぎなう。

現在世間に溢れている食べ物というのは、ほんの50年前に日本人が食べていた食べ物とは程遠い偽装食品といえる。それで、人体の自然治癒力がおちてしまって人は不健康になり、原因不明の不定愁訴、精神の異常といった昔はほとんどなかったような原因不明の疾患が蔓延しているのだ。

オーガニックは体をかえる。心をかえる。人を本来の姿にかえす。今の世の中というのは、多数決で成り立っているけれども、それらは決して正しいことばかりであるとは限らない。そんな世の中で、少しでも正しく幸せに健やかに生きていこうと望むのであるならば、人はもうオーガニックに生きることしか方法はないのである。オーガニックは、別に特別なものではない。高級でも、贅沢でも、流行でもない。人がこの世界をあたりまえに生きていくためのありふれた生活スタイルなのだ。

どうせ、今の社会はいろんなところで行き詰まる。世の中はそのうち本物に戻るのだから、早いとこ気付いてしまった方が楽でいい。毎日がとっても面白くなるから・・・
| オーガニック生活のすすめ | 15:01 | comments(0) | - | pookmark |
オーガニック生活のすすめ(14)
本質的に幸せになる方法・・・それは徳をつむことである。
一時的に何かの調子で、仕事がうまくいったり、お金が儲かったり、素敵な出会いで幸せな家庭をつくれたとしても、そういった一時の幸せというのは、瞬間の出来事で永遠でない。本当の幸せというのは、多少の浮き沈みはあるものの、基本的にはずっといつも幸せなのだ。
自分が幸せでないと感じているならば、それはきっと日々の生活と生き方が、本来自分のあるべき道に反しているからだろう。

うちのお弁当は、化学調味料や添加物をまったく使っていない。食べ物に少しでもそういったものが入っていると、この敏感な体が反応するので正しくわかる。
スーパーやレストランの食品に、無添加のものはほぼない。ときたま、無添加と表示されていても、保存料や着色料が無添加であったり、現在の食品表示では化学調味料が添加物として扱われない傾向にあるので、本当の無添加はありえない。食品の裏に、アミノ酸と表示されているのが、化学調味料である。

食品を無添加にすると肌がツルツルになる。体調が良くなる。体が軽くなる。頭がさえる。病気になりにくくなる。
世の中で、本当のことというのは、なかなか表面にはでてこない。いろんな人に都合が悪い事はなかなか常識にはならないのだ。無添加の食事がそんなによいものならば、世間の食べ物がなぜ無添加にならないかというと、それは資本主義が儲からなくなるからである。添加物を食べると体の調子がおかしくなるので、医者や運動、民間療法が必要になる。薬を飲むと副作用が必ず出るので、別の薬や運動、民間療法が必要になる。そもそも、正しい食事をしていれば、体の調子がおかしくなることはまず、ないのだから。
物事というのは、シンプルよりもよりややこしくしたほうが、いろいろと手間がかかりお金儲けに都合がいいのだ。

幸せとは、シンプルなものだ。生きるとは、思うより意外と簡単なことだ。
幸せに生きるとは、自分自身をささげること。家族や友人や世の中に。きっとそこに本当の幸せがあるのだろうから。
 
| オーガニック生活のすすめ | 22:52 | comments(0) | - | pookmark |
オーガニック生活のすすめ(13)

母のお花の展覧会の帰り道、奈良をまわって半月ほど前に訪れた霊山寺の薬師湯にきた。川沿いにどこまでも植えられた満開の桜並木を見ながら温泉へとやって来たのだ。
週末は、だいたい二人で何処かへ出かけている。何とはなしにブラブラとするのがとても楽しい。いつものように、思いつくままに発する、理解しがたい僕の言葉の数々を、ゆきはいつもまじめに受け止めてくれる。よくもま〜〜、えたいの知れぬこんな男に、あきもせずにつきあってくれるものだ・・・とつくづく思う。

心地のよい温泉からあがって、車の中でゆきを待っていた。
生駒の山から吹いてくる春の風が、肌をなでていく。山のあちらこちらに満開の桜が咲いている。気持ちのいい春の夕暮れ。しかし、ゆきのお風呂はいつも長い。


まつ人がいる。
窓の向こうから微笑みながら、やって来る人がいる。
誰かを待っているこの幸せな時間。このいとおしい気持ち。

もし、悲しみの向こうにまた幸せがあるのだとしたら、
僕たちは、きっと二人で大きな喜びをつかめるのかもしれない。
また、新しく幸せな家族をつくれるのかもしれない。
二人で幸せなときをつむいでいけるのかもしれない。

そんなことを思った春の夕暮れ。

| - | 14:27 | comments(0) | - | pookmark |
オーガニック生活のすすめ(12)
僕は普通のスーパーマーケットを信じない。よくもま〜、善良な市民にこれだけ体に負担のある食べ物を、毎日毎日売りつづけるものだ・・・とつくづく思う。
知らないというのは、本当にこわい。日ごろの体のだるさ、頭痛、胃の重さ、イライラ、その他の不定愁訴の多くが、食べ物の間違いからきていることを知っている人は少ないのだ。
安く、美味しく、簡単に・・・売る側の人間にも悪意はない。お客さんのことを思って、消費者の求める食品を売りつづけているのだから。

玄米無添加生活をはじめて、もう20年以上、お肉も食べない無添加の食事を徹底している。それで、すっかり体が健康になってしまって、もう15年以上一度も風邪をひいていないし、病院へ行くこともなくなった。いろんな食べ物や添加物に体が敏感に反応するので、それらの食品の良さや悪さが手に取るようにわかる。砂糖はとりすぎると頭のうしろが重たくなって、頭がボーッとする。乳製品も「もう、ここまで・・・」という体の許容量がわかる。添加物は胃が重くなったり痛くなるし、化学調味料は舌がしびれて、しばらく味覚が麻痺して味がまったくわからなくなる。ベーコンやハムの添加物はかなりきついらしく、吐き気がして目の前がチカチカして倒れそうになった・・・と、みんながこんな事はないのだろうけれど、きっと、意識のわからないところで体はいろいろと負担を強いられているのだろうとつくづく思う。
僕の体が、極端に反応するのは血液や体がキレイなので、毒素を排出しようとする体の防衛反応なのである。普段から血液が汚れていると、体はもう反応しなくなる。

僕は15年ほど前、三重県でこだわりの高級スーパーをやっていた。東京の紀ノ国屋や神戸のイカリと同様の品ぞろえをしていたので、業界の人たちや百貨店のバイヤーがよく見学に来ていたものだ。ところが、所詮は、贅沢で高価なだけの普通のスーパー。安心・安全とうたう世間のインチキスーパーマーケットと何ら変わらないのだ。
以前犯した悪徳のせいで、今こんな仕事をしているのかな〜〜とも思う。
 
| オーガニック生活のすすめ | 14:55 | comments(0) | - | pookmark |
オーガニック生活のすすめ(11)
エレファントカシマシの、「町を見下ろす丘」がよい。
何年か前、「今宵の月のように」が大ヒットして以来は、もうすっかりテレビやメディアから遠ざかってしまった宮本氏ではあるが、時代の先をゆく楽曲の新しさ・詩の世界観はますます磨きがかかって素晴らしい。エレファントカシマシ、衝撃の問題作、「ガストロンジャー」とは対象的に、今回の「町を見下ろす丘」は、心がおどる爽やかなメロディー、誰もが聞きやすい詩の世界と、近年の宮本氏の音楽路線とは明らかにちがう。ところが、これがものすごく心にひびくのだ。

歌でも言葉でも料理でも、誰かから発せられたものというのはその人自身なのだろうと思う。人それぞれの生き様、考え、世界観をもった、その人自身の分身であるといえるだろう。それがきっと、歌や言葉や料理として何処かの誰かに伝わるのだと思う。
人は、自分自身をただ世の中に発すればいいのだと思う。ただそれだけで、物事は伝わるのではないかと思う。思ったことを好きなだけ、喜びに満ちた表現で・・・それが、「愛」というものなのだろう。
心を純粋に、素直に、まっすぐに。そんな人間の尊い愛が世界にしみるのだと思う。

今回のエレファントカシマシの「町を見下ろす丘」というのは、宮本氏のそんな素直で純粋な思いがストレートに表現されているのだろう。
世の中に溢れる誰かを勇気づけるような恋愛ソングや応援ソングは世間にうける。しかし、僕は宮本氏のような一部の人たちにしかその真意は伝わらないのかもしれないけれど、時代や新しい価値を作っていくような生き方がすきだ。そういうものが、人を本質的に変えるのだと思うから。そんなものが、きっと新しい世界を切り開いていくのだと信じているから。
本質的に人を、幸せに導くもの。それが、オーガニック生活の本質であるのだから。

| オーガニック生活のすすめ | 17:41 | comments(0) | - | pookmark |
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