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妙な話だが、僕の人生は30歳のとき、一度終わったのではないかと思う。
人にはとても言えないような人生の大波乱のときに、魂が入れ替わったのか?頭の上のほうから、ものすごく大きなスーパー掃除機のようなもので魂をすわれたと思ったら、天から大黒柱のような大きなエネルギーの固まりのようなものが、僕の体をつきぬけた・・・何とも奇妙な体験であったが、それ以来、価値観や性格・人間がまったく変わってしまったように思う。
人には、人生において超えるべき大きな課題がひとつあるという。そういうものを、僕は30歳のとき知ったのだろうと思う。それで、生活も環境もまったく異なった新たな人生が、また始まったのだと思う。今の生活には、不思議と以前の人間関係をほうふつとさせる人たちが、また同じように存在するのだ。
何とも人生はフシギだ。ここまで人は変わるものなのか。
誰かとかかわり、心が共鳴して、自分自身の何かが相手に流れこむ。
例えようのない喜びと感動をおぼえる。人生がまた、もう少し大きな幸福感でみちる。
人は、一日にいくつ感動できるかで人生の価値が決まるのだと思うから。
世間にはびこる食べ物というのは、本来の食べ物の姿ではない。そして、それらを日々口にし、生命の糧にしている我々もまた本来のあるべき姿ではない。
しかし、自分のまわりを見渡しても病人が多い。身内、親戚、知り合いと風邪や肩こりから、ややこしい難病まで不健康にはきりがない。
だが、ある意味、病は間違った生活と生き方のいましめであるから、人は考えや生き方を改め、心を入れ替えて少しづつ素晴らしい人間になっていくのだろう。そう考えると病気もまんざらでない。ところが、である。災いは少ないに越したことはない。病気になるとどうしても気がめいる。いわゆる生命の気が途絶えるのである。そうするともう、日々やるべき魂の旅がおろそかになる。自分自身の愛の表現などとんでもない。心と体が真に健康であってこそ、純粋な尊い魂の表現ができるのだ。
現代人は、文明の発展による贅沢な食生活によって、体と心にかなりの負担を強いられているといえる。だから、人生が、お金や出世、一時の幸せといった表面的な幸福ではなく、もう絶対に変わることのない真の幸福感を追求するといった世界観に至らないのだろう。
オーガニックとは、本来のあるべき人として生きるスタートラインである。心と体の余計な負担を取り除く魔法の扉である。オーガニックは、別に特殊な生活スタイルではない。本物を食べ、本質を生きることである。現代社会が生み出した、資本主義に都合の良い便利な食べ物ではなく、日本の伝統と文化に根ざした本来の美味を食することである。オーガニック食品は、意外と身近でそろう。食生活を無添加オーガニックに変えてしばらくすると、きっと我が身の体と心の劇的な変化におどろくことだろう。手っ取り早くと思う人は、マクロビオティックの七号食をすれば、3日でわかる人も多い。
今日はお彼岸・・・明日の仕事の準備を終えて、午後から二人で奈良にでかけた。
登美が丘のしゃれたレストランやショップをいろいろとみて、平安京のすぐとなりにある気持ちの良い温泉へいくのだ。ところが、残念なことに、温泉はもうしまっていた。それで、くるみの木がやっている秋篠の森の複合ショップへいったが定休日だった。富雄の駅前にこだわりの蕎麦屋がある。雑誌に祝日は営業と書いてあったにもかかわらず、その日はまたまた休みだった。
今日は、ことごとく行く店が休みばかり。まだ、ぼんやりとではあるが、二人で描いているオーガニックとアロマセラピーのお店のイメージが少しばかり膨らんだ一日ではあったのだが・・・
大阪への帰り道、通りなれぬ道をいくと、「霊山寺 薬師湯」の看板がみえた。「このあたり岡崎のあの気持ちよかった薬師寺温泉に似てるね。」と、ゆきがつぶやいた直後だった。三人ですごした何ものにも代えられない忘れえぬ思い出。僕とゆきが人生において味わった最大の悲しみ。あの日々を越えてたどりついたおだやかな今。前日、みんなの集まりで夜が遅くなり、体を冷やしたゆきには、薬師湯の薬草風呂がぴったりだった。まるで誰かが、僕たちを導いているようだった。
「ゆきまつくんは、これからもあなたたち二人を導く存在となってずっといっしょです。」と言われた言葉が頭をよぎった。
誰もいない心地よいお風呂の静寂の中で、幸せを感じていたら泣けてきた・・・全く行きたい店には行けなかったけれど、将来の夢がまたひとつ固まった1日。今日は平安京の温泉ではなく、ゆきのために霊山寺の薬師湯だったのだろうか?
ゆきまつはきっといるのだ。僕とゆきのまん中に、ゆきまつはきっといるのだ。
幸せに満ちていた岡崎での1ヶ月。三人ですごした忘れえぬ時間。
そんなことを深く感じた夜だった。